渋谷駅前のんべい横丁酒処「水車」
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第5回 昭和20年3月の東京大空襲のこと
 私の人生の中で忘れられないのは、東京大空襲です。 

 それは、昭和20年3月9日、午後9時30分のことでした。

 最初にB29が1機、房総沖方面から進入し、その30分後に、B29の後続機が次から次へと飛来し、焼夷弾を雨のように落とし始めました。
 そのとき、私は15歳でした。

 人が逃げられないように、外側から中央へ、円を描くように焼夷弾が落とされ、火が渦を巻いて人間を追いかけるのです。

 近所の家が燃えているのが見えました。
 家の外にいた私は、焼夷弾が落ちて、火がそばまで迫ってきているのを感じ、逃げやすい靴に履き替えようと、家の中に入ったときのことでした。

 「早く逃げなさい」と、父の声がしました。

 米穀商をしていた父は、お米を一俵を掻巻に包んで、自転車にくくり付けていました。
 父に「堅川の六の橋を渡って浦安の方へ逃げなさい」と言われました。

 荷物をまとめて、私は父よりも先に家を出て逃げました。
 六の橋が落ちたというので、逃げ場を変えました。でも、それはデマでした。

 小学校からの通い慣れた道でしたので自分の機転で行動しました。

 途中、赤ちゃんをおぶって、5歳の女の子と、6歳の男の子を連れた近所のおばさんと一緒に逃げました。

 20分くらい歩いたときでした。
 そのおばさんは、もう駄目だと原っぱにしゃがみ込んでしまって「先に逃げて」、と言われました。
 おそらく力尽きたのでしょう。火が追いかけてくるのですから、逃げ切れるかどうか分からないと思ったのだと思います。
 
 私はとっさに「2人の子供は、私が連れて行きますから」と言うと、おばさんは、ハッと我に返ったのか、気を取り直して立ち上がりました。


 小松川の橋の付近まで来ると、急に風向きが変わりました。風向きは変わっても、橋の向こうはやっぱり燃えていました。
 そのため、橋の上は大勢の人でごった返していました。防空頭巾を深く被っていても、飛んでくる火の粉に目も開いていられないくらいでした。火の粉を払い払いしながら橋の上にじっとしゃがんでいました。

 その夜は小松川の橋の上で過ごしました。

 夜が明けると、「避難してください」と言われ、橋を渡った左側にあった小松川の学校に避難しました。
 暖かい毛布と、おむすびが配られ、怪我人もぞくぞくと運ばれてきました。
 
 私は父のことが心配で心配で、泣いてばかりいました。

 学校で一夜を明かし、翌朝、焼け跡に行きました。すると、父とおばさんの家族が焼け跡に立っていました。父が生きていたことが、何より嬉しかったです。父はその日、亀戸中私を探し回ったそうです。

 すぐその足で、山手線の秋葉原まで歩き、疎開していた和光市の祖父の所へ帰りました。

 途中、線路脇やあちらこちらに人間の死体が炭団のように山積みになっていました。
 石油をかけて焼いていました。トラックで、運んだのだと思います。

 一夜にして、東京は焼け野原でした。
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