渋谷駅前のんべい横丁酒処「水車」
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第36回 米穀商の父の想い出
 米穀商を営んでいた父は、33軒の隣組の組長をしていました。
 戦争中の昭和17年、東條内閣のときに食糧管理法が制定されて、米などが配給制になると、父は、隣組を含めた家々に米や芋などを配給していました。

 米の代用食として、さつま芋やじゃがいも、大豆などが配給され、その管理は米穀商が行っていました。父は、お米や代用食の芋類もきちんと平等に分けて隣近所に配給していました。

 一家に一つ米穀通帳があって、その通帳がないとお米はもらえませんでした。食糧配給営団がすべての管理を行っていて、それ以外の人はお米を売買してはいけませんでした。そのため闇米に手を出すと、売る側も買う側も罰せられました。

 本当に食料がない時代で、米屋だからといって、いつもお米を食べていたかというとそうではありませんでした。

 米穀商でも配給米で暮らしていました。父は、そういう人でした。そんな父を誇りに思い、尊敬しています。

 早くに亡くなった母は、大食家だったのですが、食べるものがない時期に出会わないでよかったね、と父が言っていたことを思い出します。

 それから5年後の昭和22年、食糧配給営団は食糧配給公団になりました。等々力に玉川支所がありまして、二子玉川には米穀配給所がありました。父は配給所で所長をするようになりました。

 父はよく寝泊りをしていました。職員が交代で徹夜をしていたのですが、それは盗難の心配があったからだと思います。当時お米は、そのくらい国民のために守られていました。そして、そのくらいお米は貴重なもので食糧難の時代でもありました。

 働き盛りの若者たちはみな戦争に行っていたので、働き手が少なく、悪天候も重なったそうで戦後は特に食糧不足に陥っていました。これらの制度も、食糧がない時代に安定供給をするためだったそうです。

 米穀商をしていた父のように国や国民の生活に関わる重要な仕事に就いていた人たちは、在郷軍人と呼ばれていた時代でした。

 昭和25年に公団が解散した後は、個人営業ができるようになりましたが、食糧協同組合ができて、そこが問屋となって各個人店の米穀商に降ろしていました。渋谷には恵比寿食糧協同組合があり、父はそこの問屋を使っていました。

 当時、個人店を持つには資本金が必要であったり、何軒のお得意さんを持っているかが判断基準になっていて、個人店を持つのはとても大変だったようです。

 米穀商はあまり儲からない商売だそうですが、父は、お米を一粒口に入れただけで、お米の良し悪しが分かりました。父のブレンド米は人気で、美味しいと評判でした。

 生涯、米穀商を営み、真面目で曲がったことが大嫌いな人でした。もしまたもう一度生まれ変われるものなら、そんな父の子で生まれてきたいと思っています。
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