渋谷駅前のんべい横丁酒処「水車」
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第10回 終戦を迎えて
 何もない時代ですから、サツマイモや野菜などを船橋や津田沼までよく買出しに行ったものです。

 父はタバコがほしくて、東京・世田谷の瀬田に住んでいた父の姉の家に行ったところ、父を可愛がっていた伯母は、ここに住みなさいと言って父を離しませんでした。その後すぐ、和光市にいた父と私は瀬田に移り住みました。

 瀬田という所は今では住宅街ですが、当時は農家が多く森や畑がほとんどで、とても穏やかな所でした。ですから、食べる物には何も不自由はしませんでした。当時畑があるということは、食べ物があるということですから、それだけで素晴らしいことでした。

 伯母の家は商売をしていて、タバコから、帚やバケツなどの雑貨の類い、それに米屋と、大きく商っていました。男たちは兵隊に出征してしまったので、伯母が仕切ってやり繰りしていました。畑もあり、私も畑仕事を手伝ったりしていました。

 瀬田に移ってまもなくの昭和20年8月15日の正午に終戦を迎えました。日本国中がラジオの前に集まって、ラジオから流れてくる天皇陛下のお言葉に耳を傾け、終戦の玉音放送を聞きました。
「・・・堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス・・・」。

 私は16歳で、何を言っているのかさっぱり分かりませんでした。父と伯母は一言だけ「負けたのよ」と、いいました。

 その日の夕方から、電灯やローソクの灯が漏れないように掛けていた、灯火管制の真っ黒の幕を掛けなくてもよくなりました。夜は、すぐ逃げられるようにと普段着のまま寝ていましたが、「今晩から寝巻きだけでゆったりと寝られるんだ」と思ったことを覚えています。

 終戦を迎えてもなお、これからどうなるかが心配で、しばらくは無言の日々が続きました。その後のことが心配だったのは、終戦ではなく敗戦だったためだと思います。

 しかし、世の中が良くなっていくような夢を誰もが持っていました。仕事を手にしなければ、収入を得なければと、とりあえず女性はみんな洋裁学校に通っていました。私も洋裁やお花、英語など、収入に繋がるようなことは全部やりました。
私の人生は、戦争が終わって、ここから始まったように思います。

 兄は、静岡・清水の日立の青年学校から帰ってきました。お国のためにならなかった自分を悩んでいたのでしょうか・・・・・・その後ヒロポン中毒になり、家族にお酒に代えたらと言われ、今度はアルコール中毒になり、それはそれは大変でした。

 父の従兄弟の間瀬徳三は、東大法学部から三菱重工の所長となり、戦車を作っていました。そして終戦まもなく、埼玉・東松山の別荘の応接間でピストル自決をしました。
早まったと、親戚は言っています。でも当時、戦車を作っていたという事だけで大変なことだったと思います。

 戦後何年間も、誰もが大変なときでした。
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この記事に対するコメント
今日、3人で伺った中の一人です。お聞きしたお話、とても心に残りました。
私も戦争のことは亡くなった祖母から聞いた話くらいですが、久しぶりに思い出しました。
blog、読ませていただきますね、是非続けてください。
【2013/04/18 00:15】 URL | まみこ #- [ 編集]


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