渋谷駅前のんべい横丁酒処「水車」
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第9回 戦禍の中で
 私の兄は昭和2年生まれで、戦禍の一番激しいときに、父に相談もなしに特攻隊に志願しました。兄が15、16歳のときだったと思います。

 特攻隊に志願したということは、「お国のために死んで帰ってくる」ことを意味していました。国のために尽くしたかったのだと思います。


 私が、お帳場の引き出しを開けたときのことです。髪の毛が、半紙に包んで入っていました。ビックリして父に見せると、とにかく父も驚いて学校の先生に相談して、特攻隊への志願は取り止めることになりました。

 兄は長男でしたから、もちろん父は跡取として考えていました。
当時、お米の配給をしていた米穀商という職業は、跡取がいないと大変なことになりますので、兄に説得しましたが、お国のためと思い込み、父に反抗しはじめました。
 兄は、教育に洗脳されていたのでしょうか……。


 志願は何とか食い止めましたが、兄はその後、東京・亀戸の日立青年学校に入りました。それから2年が経った頃、激しい戦禍のなか、日立青年学校は静岡・清水に移され、兄は親元を離れました。
青年学校は、働きながら教育を受ける場所でした。辛いこともあったのか、兄はたびたび家に顔を見せていました。
 兄は清水で終戦を迎えました。今思えば、17、18歳の青年の頃のことです。


 昭和19年には強制疎開(建物疎開)がはじまり、1週間以内の疎開命令が出ました。父と二人、母の実家があった和光市に疎開し、父は毎日和光から亀戸の配給所へ通い、朝は6時に出発し、夜は11時に帰って来るという生活でした。
強制疎開というのは、避難所などを作るために建物を壊すための疎開です。つまり、家はなくなるのです。

 祖父が、戦況も落ち着いているようだから亀戸に帰っても大丈夫なのではないか、といい一旦帰ったときのことでした。 亀戸に帰るといっても家はないですから、長屋を借りて暮らしていました。その後まもなく、東京大空襲になりました。

 昭和20年3月9日の夜からの出来事です。その年の8月15日に終戦を迎えました。
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