渋谷駅前のんべい横丁酒処「水車」
おかげさまで創業48年。銘酒と心づくしのお料理を用意してお待ちしています
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TBSのNスタに取り上げられました。
 先日3月21日(金)18時にTBSのNスタというニュース・情報番組で、水車が取り上げられました。取材後すぐに放送されることになり、皆様にはキチンとご案内できなかったのですが見てくださった方々、ありがとうございました。

 その後、「見たよ」となじみのお客様が来てくださったり、すごい反響がありました。とても有り難く思っております。 お店の様子と、タクシーに乗って帰る姿など、私の普段の様子も少し映っていたようです。

 皆さんから「どうして教えてくれなかった」などと、お叱りも受けましたが、私自身も自分の姿をテレビで見るのが嫌で全く見ておりません(笑)。

 撮影に来てくださったときのことです。 スタッフの方から「どうしてこの仕事を選んだのですか?」といったようなことを聞かれました。

 私は、どのように答えたかうろ覚えですが、商売や料理を作ることは元々好きでしたが、戦後のことなので好きなこの道しかなかったのかもしれません。渋谷の小料理屋さんで修行もしました。

 その問いにお客様が「それは意地じゃないですか」と言ってくださり、その通りだと感じました。

 何事も続けることが一番難しいことです。

 仕事というのは波瀾万丈。穏やかではありません。大波が来てみたり、静かになったり……。

 若い人たちには「学び」ということを伝えたいです。続けていくなかで、人との出会いがあり、そのなかで人は学んでいくのだと思います。

 だからこそ人生は、出会い、人を大事にすることが必要だと思っています。

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「水車」が21日18時15分からTBS「Nスタ」に登場。
 21日(金曜日)18時15分より、TBSニュース・情報番組「Nスタ」で「渋谷のママ」と題されたテーマで「水車」が取り上げられます。

 お店だけでなく、自宅にも取材が入りました。
 夕方に家の玄関を出て、お店のある渋谷へ行くまでの出勤途中の様子から、帰りのタクシーに乗るところまで、ずっとカメラが後を追いかけてきました(笑)。密着取材というのでしょうか。

 お店ではいろいろな料理などもカメラに収めていました。
 お客様たちには、インタビューにもご協力いただきました(ありがとうございました)。Nスタのスタッフの皆さんは何日間かに分けて、いろいろと取材と撮影をしていかれました。

 83歳まで仕事をしていることに興味があるのでしょうか。
 赤い服がいいと気に入ってくださり、赤の服ばかりカメラで撮っていました。

 見所たっぷりの内容になるのではないでしょうか。

 ちょっと恥ずかしいですが、ぜひご覧になってみてください。


水車名物「ひれ酒」はいかが!?
 水車では「ひれ酒」が人気のメニューの一つになっています。

 20年くらい前のことでした。
 とある和食屋さんで出していただいた「ひれ酒」が、とても美味しくて「なんて美味しいひれ酒があるのかしら」と、その味が忘れられませんでした。 そして、私のお店でも出そうと思い立ち、作り方や合う日本酒などを自分で吟味、研究して今の水車の味に落ち着きました。
 日本酒は「爛漫」がとてもよく合います。 マッチでボッと火をつけアルコールを飛ばすのですが、面白い演出にもなってお客様に喜んでいただけます。

 私は、下町育ちなので下町の味が染み込んでいます。 水車では、その下町の味を目指して再現しています。
私なりのこだわりと追求です。

 それを皆さんが美味しいと言ってくださることが何よりの喜びです。


第42回 軍国主義下の愛国教育
 終戦直前の昭和20年3月10日の大空襲で東京の下町は焼け野原になりました。

 父と私は埼玉・和光市に疎開していたのですが、戦争も落ち着きを見せていたため父の仕事柄一時的に亀戸の長屋に住んでいました。ちょうどそのとき大空襲にあいました。そして大空襲後、和光市から世田谷の瀬田に移り住みました。


 その頃の用賀辺りは、東條内閣総理大臣とその家族や小学校の副校長先生などが住んでいました。世田谷は畑と森ばかりで、きっと安全地帯だったのだと思います。長崎の森という何万坪の森林もありました。住宅地で酒屋さんや米屋さん、ミシン屋さんなどが軒を連ねる昔からの商店街があり、落ち着いた町でした。疎開者の人たちも多く住んでいました。

 電車が通っていて、徳川家のお屋敷もありました。何もない畑や森などの場所や、由緒ある場所には焼夷弾などは落とされることはありませんでした。アメリカは無駄なことはしなかったのだと思います。

 東條さんは、3日に1日は朝礼台に上って生徒を教育していました。
 鉄棒や長刀を習わされたり、「愛国の花」という歌のお遊戯をしたり、新しい学校が建てられ、立派なプールもできました。何年もかかって、子供たちを訓練していたのだと思います。

 私は小学生でしたが、子供ながらにその変化に気がつきました。変化は感じていましたが、当時は学校の教育はそういうものだと思っていました。今思えば、そういったこと全てが計画的だったのだと思います。

 これからは、そんな時代がないように願うばかりです。




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