渋谷駅前のんべい横丁酒処「水車」
おかげさまで創業48年。銘酒と心づくしのお料理を用意してお待ちしています
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お客様に感謝の47周年行事でした。
 10月22日、水車は47周年を迎えました。
 21日~26日の6日間は、日頃の感謝を込めて皆様に楽しんで頂けるような企画を催した行事を行い無事に終えることができました。
 皆様の心遣いに感謝申し上げます。

 水車の名前を入れたTシャツを50枚ほど誂えようとしたのですが、手違いで間に合わず、急遽、北海道の利尻のとろろ昆布を用意いたしました。お客様に差し上げても喜ばれる人気の商品ですし、「喜ぶ」という語呂合わせで縁起もよく、私にとっても嬉しいことですので、利尻の昆布を選びました。

 バイトの皆さんに一生懸命助けて頂いたお陰でもあり感謝しています。無事に47周年を終えて、今はホッとしております。

 今回、常連さんには改めてお知らせはしなかったのですが、覚えていて来てくださいました。陽子さんや昔からのお客様の有名な乳腺専門医である南雲先生も来てくださいました。
 そうやって駆けつけてくださったことが何より嬉しかったです。振り返ってみると、覚えていてくださったというだけで有り難いものです。

 感謝の気持ちで一杯です。

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第36回 米穀商の父の想い出
 米穀商を営んでいた父は、33軒の隣組の組長をしていました。
 戦争中の昭和17年、東條内閣のときに食糧管理法が制定されて、米などが配給制になると、父は、隣組を含めた家々に米や芋などを配給していました。

 米の代用食として、さつま芋やじゃがいも、大豆などが配給され、その管理は米穀商が行っていました。父は、お米や代用食の芋類もきちんと平等に分けて隣近所に配給していました。

 一家に一つ米穀通帳があって、その通帳がないとお米はもらえませんでした。食糧配給営団がすべての管理を行っていて、それ以外の人はお米を売買してはいけませんでした。そのため闇米に手を出すと、売る側も買う側も罰せられました。

 本当に食料がない時代で、米屋だからといって、いつもお米を食べていたかというとそうではありませんでした。

 米穀商でも配給米で暮らしていました。父は、そういう人でした。そんな父を誇りに思い、尊敬しています。

 早くに亡くなった母は、大食家だったのですが、食べるものがない時期に出会わないでよかったね、と父が言っていたことを思い出します。

 それから5年後の昭和22年、食糧配給営団は食糧配給公団になりました。等々力に玉川支所がありまして、二子玉川には米穀配給所がありました。父は配給所で所長をするようになりました。

 父はよく寝泊りをしていました。職員が交代で徹夜をしていたのですが、それは盗難の心配があったからだと思います。当時お米は、そのくらい国民のために守られていました。そして、そのくらいお米は貴重なもので食糧難の時代でもありました。

 働き盛りの若者たちはみな戦争に行っていたので、働き手が少なく、悪天候も重なったそうで戦後は特に食糧不足に陥っていました。これらの制度も、食糧がない時代に安定供給をするためだったそうです。

 米穀商をしていた父のように国や国民の生活に関わる重要な仕事に就いていた人たちは、在郷軍人と呼ばれていた時代でした。

 昭和25年に公団が解散した後は、個人営業ができるようになりましたが、食糧協同組合ができて、そこが問屋となって各個人店の米穀商に降ろしていました。渋谷には恵比寿食糧協同組合があり、父はそこの問屋を使っていました。

 当時、個人店を持つには資本金が必要であったり、何軒のお得意さんを持っているかが判断基準になっていて、個人店を持つのはとても大変だったようです。

 米穀商はあまり儲からない商売だそうですが、父は、お米を一粒口に入れただけで、お米の良し悪しが分かりました。父のブレンド米は人気で、美味しいと評判でした。

 生涯、米穀商を営み、真面目で曲がったことが大嫌いな人でした。もしまたもう一度生まれ変われるものなら、そんな父の子で生まれてきたいと思っています。


第35回 のんべい横丁がお客様に喜ばれるわけは?
 のんべい横丁には、41軒の店舗が入っています。
 多くの店舗が入っているので、「渋谷のんべい横丁維持会」により、さまざまなルールが決められて守られています。

 昔も今も飲食店以外は入れない、というのがここのルールです。この横丁のルールは、本当にいろいろな内容があります。当初は、先輩方にいろいろ伝えられ教えられました。

 経営者以外は寝泊りしてはいけない、住めないのが決まりです。これはタバコなどによる火事などの危険性も鑑みたルールです。

 昔は、又貸しはしてはいけない、というルールもありました。

 渋谷で一番ウルサイ(厳しい)のがこの横丁です。テレビや雑誌などは有料で撮影を許可しています。ゴミのルールなども、とてもシッカリしています。

 維持会の場で決め事が定められるので、キチンとしています。
 だから、居心地がよくて居ついてしまったんでしょうね。

 昔は、どこのお店でも、お客様は誰も彼も入れませんでした。
 そんな時代もありました。47年いろいろありました。

 また、氷屋(氷、水、おしぼり)の中幸さんや、お豆腐屋の相川さんなど何十年も続いている、昔ながらの業者さんが出入りしています。氷やおしぼり、お豆腐や油揚げなどを持って来てくれて、みんながそれを待っている、そんな感じで、何軒ものお店が今でも、この業者さんを贔屓にしています。

 のんべい横丁の厳しいルールがあるからこそ、お客様には心地よく飲んで帰っていただけるのだと思っております。


47周年が近づいてきました。
 水車は10月22日、開店47年目になります。

 10月21日の週は、みなさまに喜んでいただけるようにと思っています。

 みなさまに、くじを引いていただいて、プレゼントを差し上げたいと考えています。
 
 空クジなしですので、どうぞご期待ください。


第34回 のんべい横丁の歴史
 「水車」は今月で47周年を迎えますが、ここ「のんべい横丁」は62周年になります。47年の間、いろいろなことがありました。

 もともと「のんべい横丁」は、GHQが、今の東急本店がある場所あたりに38軒の屋台があったのを見て、「もっときれいな場所に出してあげてもいいのでは」と区にお願いをしてくれたことがはじまりです。ここ以外にもう一箇所候補地があったようですが、屋台のみなさんがこの場所を選び移ってこられました。

 昭和42年、私は渋谷・大和田でお店をやっていたのですが、将来開発地区に入る予定もあり、お店を移転しようと場所を探していていました。そのとき、ここ「のんべい横丁」を見つけ、何度も下見に来ました。

 「のんべい横丁」という場所に移るとき、店舗も小さいですし、他の場所からみると少し下に見られているのではないかと思っていました。しかし、移ってきてみると違いました。今は、ここにお店を構えていることを誇りに思っています。

 渋谷という場所は、昼間は賑やかで遊ぶところがいっぱいありますが、夜になるとみなさんこの横丁に集まり、いろいろな話をしてストレスを発散させます。しかし、ただ遊びに来たいというだけの場所ではなく、ここは社交場ですね。

 当時この横丁は、慶応ボーイのお客様が多く、そのほかお医者様やお役所のお客様が多くいらっしゃいました。駅前という場所柄もあって、客層がいいのだと思います。この横丁は、できた当時の昭和27年から協同組合という法人ですから、格の高い横丁でもあります。

 また、優秀な渋谷警察が近くにあり、日本一忙しいといわれる渋谷駅前交番もすぐ近くですので、何かあればすぐ駆けつけてくれます。

 47年、我慢してきたこともたくさんありましたが、今こうして続けていられるのも、多くのお客様に助けられてきたからだと思っております。感謝しております。




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