渋谷駅前のんべい横丁酒処「水車」
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第29回 黒マントのおじさん
 戦前は、小作人の娘たちが身売りに出された時代でもありました。

 その名残でしょうか。小さい頃、夕方になると母によく「黒いマントのおじさんにさらわれるわよ」、と言われたものです。
黒いマントと聞いただけで、私は怖くて早く家に帰るようになりました。その言葉は、いつも私の頭にこびりついていました。

 実際、知り合いのご家族の子供さんが、急に行方不明になったことがありました。その後の行方は、未だに全く分かっていません。

 しばらく経ってから、日本人がさらわれるニュースを聞き、この事件も、それに関係しているのではないかと、私は勝手に不安になり心配をしていました。

 この話を聞かせてくれた人は、すでに亡くなっているので、もう確かめることはできないのですが、どこかで、幸せになっていてさえくれればいいのですが。

 この世の中はとても、複雑ですね……。
こうして時々思い出しては、考えされられています。

 子どもにとっては、怖い時代でした。

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第28回 和光市の旧家だった母の実家
 和光市にある母の実家の本家は、3000坪という庭がありました。名前は柳下で、屋号は長島といいます。和光市の駅から出ているバスのバス停の名前にもなっています。

 本家の祖先は、柳下伊平太という武士の出で、鎧も残っています。その後は、代々政治家を務めました。昔は、新倉の町長として何十年もお役目を果たしました。

 本家は元々造り酒屋で、そこの養女が私の母でした。いろいろと事情があり、父と結婚しました。

 母が女学校時代、この新倉で陸軍特別大演習があり、そのとき本家に宮様が10日間お泊りになりました。大きな池があって、たくさんの鯉がいたのですが、そこで宮様は鯉をお釣りになったそうです。母と祖母は、宮様のために三越デパートで絹布のお布団を揃えたと聞いています。

 そんな本家で、私も小学校の夏休み中は、田舎暮らしを楽しめて幸せでした。お寿司などのご馳走を出していただいたり、若衆さんや女中さんが大勢いて、とても大事にしてもらいました。

 大きな庭で同じ年くらいの本家の子供たちと一緒に遊びました。その庭に、大きな井戸があったのを今でも鮮明に思い出します。


第27回 終戦の日を迎えて
 昭和20年8月15日。
 この日は太平洋戦争が終わった日です。
 正午12時に国民がラジオの前に集まり、昭和天皇の録音放送を聞きました。

 私が15歳のときでした。私たち家族は、世田谷区瀬田にいたのですが、家族全員がラジオに耳を傾けていました。その間、沈黙が続きました。

 私は、父や伯母に「どうしたの?」と聞きました。「日本は負けたのよ」、と伯母が一言だけ言いました。

 父も伯母も黙ったままで、1日沈黙が続きました。その後の日本人のことを考えたのしょう。娘たちは外国人にいたずらをされるのではないか、男たちは殺されるのではないか、と考えたのだと思います。テレビもない時代ですから、これから先のことが全く分からず、いいようには想像できなかったのは当然かもしれません。

 この日は、無言で時間が過ぎていったのを覚えています。その後、実際は、アメリカ人の皆さんは親切で、私は嫌な思いはしたことはありませんでしたが、あの終戦の日を迎えて、大人たちはみんな先の見えない不安に襲われていた、ということだけは確かでした。


第26回 つらかった疎開時代
 和光市にある母の実家の叔母は、今年で100歳になりました。美人で気品があって、いつも凛とした明るい人です。昔から家に叔母がいるだけで花でした。

 戦争中、東京亀戸にいた私たちは、一週間以内に強制疎開をするようにと国から言われ、和光市の母の実家に疎開しました。女中さんはみんな、挺身隊に行ってしまい、私が手伝いながらの生活でした。

 車もない時代でしたので、私は自転車を習いました。荒川の土手から何回も落ちたり、大変でした。やっと乗れるようになってからは、何処にお使いに行くのも楽になりました。

 お庭の掃き掃除もしました。朝6時に起きて、1500坪(一町四方)と言われた庭を1時間かけて掃きました。掃除をしているとき、真っ赤なトマトが庭に1個なっていて、その赤のあまりの美しさに見とれていました。私はトマトとコンニャクが大嫌いでしたが、そのトマトの美しさに箒の手も止まり、何もかも忘れて見ていましたら、叔母が、私の後ろにジッと立っていたことを今でもトマトを見るたびに思い出します。

 そのくらい厳しい時代だったのです。お風呂に入るときも、祖父からはお風呂代を払うようにと言われました。今でも涙で原稿用紙が濡れて、書くことができません。

 祖父に「そろそろ東京も落ち着いたようだから、帰ったらいいではないか」と言われ、すぐ亀戸に家を借りて、戻りました。
しかし、間もなく亀戸で3月9日の夜からの大空襲に合いました。2日後、和光市に帰りましたが、祖父は本家のおばあさんから「何で亀戸に帰したのだ」と大変怒られたそうです。

 私が、元気で帰ったのが大空襲後2日目です。それから祖父は優しくなりました。

 戦争とは人を不幸せにしますね。




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