渋谷駅前のんべい横丁酒処「水車」
おかげさまで創業48年。銘酒と心づくしのお料理を用意してお待ちしています
プロフィール

suisha

Author:suisha
酒処「水車」へようこそ!
03-3407-3694



最近の記事



最近のコメント



FC2カウンター



リンク

このブログをリンクに追加する



最近のトラックバック



月別アーカイブ



カテゴリー



ブログ内検索



RSSフィード



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


第25回 箏曲は私にとっての命。
 私は4歳から、山田流箏曲(琴)を学びました。

 小学校に入学してからは、母が「勉強と一緒に琴をやるのは無理ではないか」と言い、1年生で止めました。

 小さい頃から私は、音の出るものは何でも大好きでした。疎開中の和光市では、近所の本家に当時では珍しくオルガンが2台ありましたので、時間があると本家に行って、オルガンをよく弾いていました。

 昭和49年、44歳の頃、父や兄の看病など私の身辺も落ち着き、箏曲宮城宗家に入門をしました。
 大好きな箏曲が、ふたたび復活しました。毎日毎日、琴を触らない日はありませんでした。

 小さい頃から音に触れる機会が多く、琴をやっていたからでしょうか、再び習い始めたときに先生から「いい音色を出しますね」と言われ、嬉しかったことを覚えています。

 宗家は、東京芸大の教授をされていた宮城喜代子先生でした。琴と、お三弦の両方の師範をとると芸大に無試験で入れましたので、将来、大師範をとってお弟子さんに教えるというのが目標でした。
 将来を考え頑張りましたが、時代はいつも変わっていきます。人生は思うようにいかないことが、とても残念です。

 箏曲は、私にとっての命だったと思います。

 今は、水車だけでがんばっていたいと思っています。

スポンサーサイト

参議院選挙で思うこと。
 7月21日(日)23時すぎ、ケーブルテレビの参議院選挙の取材を受けました。3分間の生放送でした。

 「選挙に行ったかどうか」などについて質問を受け、回答させていただきました。私自身もお店に来る前に選挙に行ってきました。

 若い人たちは特に、参議院選挙について、誰に投票したらいいのか分からず関心が低いのかもしれませんね。私は戦争を経験したせいか、日本の未来を心配してしまいます。若い人たちが歴史を知って、少しでも政治に関心を持ってもらえたら、と思っています。

 今回、とても熱心に何度も何度も取材の依頼をしてくださった、スタッフの女性の熱意に動かされて、取材を受けることにしました。 これほどしっかりした女性はいないのではないか、と思うほど一生懸命な女性でした。

 選挙に行って投票することは、日本の無事を願うことだと思います。とても大切なことであり、自分を守ることにも繋がるのだと思っています。

 私は、これからの日本の行末を祈るだけです。今日は選挙に行く前に美容室に行ったり、撮影スタッフの方と打ち合わせをしたり、とても忙しい1日でした。
 今夜は、カウンターでひとり酒をしました。


第24回 母と祖母の想い出
 私の母は、明治36年生まれです。現在の和光市白子で生まれ育ち、女学校は本郷の錦秋高等女学校出身でした。

 女学校時代は、寄宿舎に入っていて、一週間に一度家に帰る日、東上線の成増駅から歩いて帰ると、いくら歩いても歩いても家に着かず、キツネやタヌキが出てなかなか家に帰れなかったといいます。若い衆さんが心配して、提灯を持って迎えに来ると帰ることが出来た、といった時代だそうです。
 そんな話を母から聞いたことをよく覚えています。


 私の祖母は、埼玉県の藤久保(現入間郡三芳町藤久保)の江原家の生まれです。当時、練馬まで一続きの土地を持っていた大地主だったそうで、そこから和光市の柳下家に嫁いで来ました。とても人柄がよく、人のために尽くした四里四方で聞こえた偉い方だったそうです。

 嫁いだ先は、造り酒屋をしていた柳下の本家でしたが、子どもが出来る前に旦那さんが亡くなり、すぐ近所の分家にあたる祖父の家に嫁いで行きました。
 庭には白子川が流れていて、そこには大きな水車があった小作人がお米をつきにくる家でした。再婚ですので、苦労も多かったと思います。

 祖母は、私が子どもの頃に亡くなりましたが、母が胸膜炎(当時は肋膜炎と言っていました)を患い、東大病院に3ヶ月間入院したときには、祖母は毎日毎日病院に行き、病院の下足番の方など、皆さんに寸志を差し上げたという、有名な一幕もあったと聞いています。家族の愛の絆は、こんなにも強いのですね。

 祖母は私が幼い頃に亡くなりましたので、あまり覚えていませんが、祖母の話を家族から聞いて、祖母のような人になりたいと、今でも思っています。

 母や祖母のことは、よく思い出します。


第23回 周囲に恵まれた弟の人生
 私の弟は、昭和11年生まれです。
 弟が1才3ヶ月のとき、母が突然くも膜下出血で亡くなりました。弟は、かわいいさかりで、私も大好きでした。母は、無意識におっぱいを出して弟に飲ませようと一生懸命でしたが、その3時間後に息を引き取りました。36歳でした。

 赤ちゃんの弟は、お乳をあまりほしがらなかったのですが、昔は牛乳が手に入らなかったですから、近所の方にお乳を飲ませてもらいに歩きました。

 母の35日の納骨のときに、和光市の祖父の世話で弟を里子に出しました。小学校に上がるまでの条件で、祖父がお世話をしてくれることになりました。

 弟は、食事と環境が変わったせいか、5才のときに急に骨の病気が発見されました。発育盛りのときに、お母さんのお乳が飲めなかったからかもしれません。大学病院での診断の結果、手術を考えたのですが、そうとう高いお金と生死に関わるといわれ、手術は断念しました。

 弟は小学校に入る時期になって、亀戸の家に帰って来ましたが、食事もろくに食べずに泣いてばかりいました。「三度のご飯は食べなくていいから、預けられた先の新倉に帰りたい」、「夜は外に寝てもいいから」と言ってききませんでした。

 そんなとき、里親が亀戸の家の近所に来て、様子を見に来ました。「お金はいらないから、育てさせてください」といわれ、弟を連れて帰ってしまいました。
 「家族から、かわいがってもらえるなら」と、私は思いました。里親も、その後男の子が生まれ、大変だったと思います。

 弟の面倒をみてくれていた和光市の祖父が亡くなり、遺産相続で大変な時期に入り、調停で裁かれたそうですが、私は家を出ていましたので父任せでした。父は欲のない人柄でしたので、祖父の親戚に任せたようです。
 今でいう成増駅近く900坪という土地でした。弟は、里親の判断でお金でもらい、私も兄も何も頂きませんでした。里親は、弟に会社を出してあげたいと思ったのでしょう。

 弟は、55歳のときに脳梗塞で倒れて、入退院を繰り返していました。東所沢病院に5年間入院して、「お姉さんの傍の病院に移してください」と病院からいわれ、三軒茶屋病院に移りました。病院を移ってから6ヶ月。弟は65歳で亡くなりました。それまで面倒をみていました。

 私も家族の犠牲者でした。でも、私は人様に大変恵まれ、とても有り難いと思っています。皆さん、「ママは誰かに守られているのね」、とよくいってくださいます。それは、母のような気もします。

 母が亡くなり、父が亡くなり、兄が亡くなり、弟も亡くなって、あとは自分だけだと思うと、どこかホッとしたところがありました。

 人生誰でも、いろいろなことがあって過ごしていくのだと思います。
 そんな人生ですが、皆さんにとても感謝しています。


第22回 戦争が影を落とした私の20代
 昭和26年、私が21歳の時でした。慶応大学の英文科出身の方と出会いました。

 彼の伯父さんは九州で高校の先生をしていたので、彼も学校の先生を目指し、九州に一緒に行ってくれないかと言われましたが、私は返事ができませんでした。彼のご両親は、彼に私と結婚しなければ勘当すると言っていたくらい、私は可愛がってもらっていました。

 戦後ということもあって、誰もが落ち着かない時代でした。仕事に就くことは大変で、働くことに精一杯でした。私も結婚ということより、仕事という夢がありましたので、九州に一緒に行くという彼の願いに応えることはできませんでした。

 お互いに愛しながら8年が過ぎていきました。私たち二人とも戦争の犠牲者でした。私が28歳のとき、彼はバイクの事故で即死しました。

 彼は亡くなる10日前、「僕は死ぬかもしれない。そのときは喪服をきちんと着て、白い足袋を履いて、取り乱さないようにしてくれ」と私に言いました。死をどこかで予感し、覚悟していたのかもしれません。

 子供を乳母車に乗せて二人で歩きたい、それが夢だと言って、背広をきちんと着て、わざわざ写真屋さんで撮った写真と、病院で検査をした健康だという証明書を持ってきてプロポーズしてくれました。とてもロマンチックな方でした。

 和光市の母の実家の叔母が、奥座敷の床の間の一輪挿しに活けていた水仙の花がとても好きでした。何にもない部屋に、ぽつんと真っ白な水仙の花が一輪あるのが好きで、当時住んでいた部屋にも飾っていたのですが、彼が初めて部屋に来たとき、それを大変気にいっていたことが、忘れられません。

 彼の死によって、私の20代の青春も終わりました。そして、私の大好きな一輪挿しの白い水仙の花も忘れました。

 父は私に、そんなに好きだったのならどうして一緒にならなかったんだ、と言いました。私には夢がありましたし、彼も大変な時期で、みなさん考えられないようなことが、たくさんありました。経済的に一緒になれるような状況ではありませんでした。

 彼が亡くなった晩のことでした。通夜の客とはよく言ったもので、お通夜に行くと、わんわんないていた女性がいました。どうやら彼の会社がよく使っていた銀座のクラブの女性だったようです。
 彼が亡くなってからしばらくは、彼に女性がいたとしても、彼に辛いことがたくさんあったとしてもいいから、「せめて何処かで生きていてほしかった」と思っていました。

 お互い愛しながらも一緒になれない時代でした。彼もいろいろ悩み、ノイローゼになっていたのだと思います。私たちはいつまでも戦争を引きずっている世代です。拭うことのできない事実がいつもついて回っていました。




上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。