渋谷駅前のんべい横丁酒処「水車」
おかげさまで創業48年。銘酒と心づくしのお料理を用意してお待ちしています
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第21回 戦争をずっと引きずっていた兄
 昭和2年生まれの兄は、特攻隊に志願して命を捧げる覚悟でいましたが、父に反対されその夢が断たれてからはヒロポンに頼り、その後はアルコールに頼るようになってしまいました。

 米穀商をしていた父は、事務を手伝ってくれていた店の向かいの家の三田さんの娘さんを兄のお嫁さんにしようと思っていたようなのですが、アルコール漬けの兄を見て兄に言うことさえも諦めたようです。家族同然のように親しくしていた、昭和女子大出のとても品の良いお嬢さんでした。父は財産を投げうっても一緒にさせたいと思っていたようでした。
後になって私は父からこの話を聞き、このことを兄に言っていたら少しは違っていたのではないか、と思いました。

 兄は、別の女性と一緒になりたかったようなのですが、父の反対もあって上手くいかず、結局、生涯独身を通しました。

 兄は、アルコール依存症でした。
 当時、私が付き合っていた彼のお兄さんが、慶應義塾大学の特待生で医学部を卒業し、内科の先生をされていました。「まだ若いのだからお兄さんを治してあげなさい」と言ってくださり、慶應義塾大学病院の先生を紹介してくれました。兄が33歳のときでした。

 診断していただくと、すぐ入院したほうがいいと判断され、その日のうちに八王子にあった聖跡桜丘保養院へハイヤーで送っていただきました。当時その病院は、慶應義塾大学医学部の診療スタッフが派遣されていたようで、今でもアルコール専門外来があるそうです。

 とても真面目な兄でしたので、入院中は治療に専念してすぐに退院できました。しかし、退院するとその帰りにアルコールを飲んでしまい、入退院をずっと繰り返していました。

 そんな兄も、昭和49年に父が亡くなったとき、ピタッとお酒を止めました。思うところがあったのだと思います。

 その後は、いろいろなことに興味を持ち、趣味に生きる人になりました。写真や彫刻、パチンコなどにも夢中になりましたが、お酒を飲むよりはいいのではないかと思いました。

 当時、主治医の先生がアルコール中毒から立ち直れる人は、2万人中1人だと言っていましたから、本人も喜んでいたようです。

 平成10年の1月、70歳で兄は亡くなりました。アルコールに依存し、お酒を飲んでは暴れていた兄でしたが、亡くなったときは、悲しくて悲しくて仕方ありませんでした。

 兄は、戦争をずっと引きずっていた苦労の人生でしたが、最後の23年ほどは立ち直れて本当に良かったと思っています。

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第20回 優しい父の思い出
 私が「水車」を出店した頃、渋谷から二子玉川駅まで玉川線が通っている時代でした。そのほかには、バスが渋谷から二子玉川まで通っていました。

 父には、「水車」がどのような店なのか、場所も言わずにいました。そんな父が、あるとき突然店にやって来たので、驚いて私は泣きました。ずいぶんと彼方此方を探し探し、やって来たようでした。

 急に思い立ったようで、自分が亡くなる前に、私が働いているお店を見たかったのだと思います。体も弱かったのにどうしてと、そのときのことを思い出すたびに今でも涙が出ます。娘を思う心が強かったのでしょうか。

 何も飲まず、食べないと言って疲れた様子だったので、体が心配になり、すぐに店の二階で寝かせて、二時間くらい横になってもらいました。帰りは、タクシーでも呼んであげればよかったのですが、一人でバスで帰ると言って帰って行きました。

 父は、子供が可愛いかったため再婚もしませんでした。母が亡くなった日から、再婚話があっても断り続けました。

 子供の躾は、とてもとても厳しい父でしたが、とても優しい父の思い出が今でも心に残っています。
 「学校の遠足は必ずいくこと。結婚したら旅に出ることもできないから」という、父の言葉通り、学校の遠足は必ず行きました。小学6年生の修学旅行は、伊勢、奈良、京都と行かせてくれました。
 父は好男子で、同級生からも人気のあった素敵な男性でした。

 亡くなる前の1年3ヶ月、最後に入院していた病院へ、私はお店を開ける前に三河島の関川病院まで毎日通っていました。その病院では、皆さんに可愛がっていただき、父は毎日ニコニコしていました。幸せだったと思います。
 そして、77歳で亡くなりました。

 生まれ変わったらまた、父の子供で生まれてきたいと思っています。


第19回 「水車」開店
 お店を出すために、渋谷の不動産屋を何件も当たりました。なかなか適当な店が見つからず、半年近く探して、やっと今の渋谷の「のんべい横丁」に辿り着きました。

 ある夜、道玄坂の不動屋さんに紹介されて、横丁に行きました。横丁の組合長さんに、売りに出ていた店舗の売主の電話番号を聞きたくて尋ねましたが、分からないといわれ、翌日には売られていました。残念でしたが、仕方ないと思いました。

 その翌日、不動産屋さんから電話があり、買主から貸したいと言われたのが今の水車の場所です。
 昔から渋谷は慣れ親しんだ場所でしたし、のんべい横丁のことは聞いて知っていましたが、どういうお客さんが入っているのか、何度か下見に行き、客層も良い印象だったので、借りることに決めました。

 交通の便が良くて、もちろん家賃はそれほど高くないのが条件でしたが、そうはいきませんでした。店を一つ出すというのは、かなりのお金がいることがわかりました。
 父に相談すると断られ、心配はかけたくなかったので、それ以上の相談はしませんでした。さいわい、働いていた渋谷のお店の二人のお客さんが資金を出してくれ、出店することができました。そのお二人は、港湾局の宮岡局長さんと経理課長の敦賀さんでした。開店のときにご贔屓のお客さんがたくさんいてくださったので、お陰様でその資金も3年で返すことができました。

 古いお店だったのですが、内装をして綺麗にし、昭和42年の10月に「水車」を開店させました。今から46年前のことでした。


第18回  かけがえのない出会い
 私が34歳のときでした。毎月お店の集金にお役所へ行っていました。当時、役所は毎月9日と24日が〆日でした。ある課の課長さんが私を永いこと見初めていたそうです。

 お酒は好きでないようでしたので、同僚に誘われても行かない方でした。あるとき係長に誘われて飲みに行った先が、私が働いていたお店でした。
 私と会って驚き、それから毎日店にいらっしゃるようになりました。当時は上級職は、一人で飲みにいらっしゃることはできないときだったのですが、会いたい一心で来てくださいましたが、役所の方々は心配していました。

 私はつきあっていた方がいましたし、彼のことは特に気に留めていなかったのですが、誠実さと愛の強さに私の心は動きました。2月の一番寒い頃のことでした。私が帰ってくるのを朝まで待っていたようです。そのことを知って心引かれ、私は彼と別れ、Aさんと付き合うようになりました。

 結婚も申し込まれましたが、事情があってお受けできませんでした。将来一緒になることを約束して34年が過ぎました。Aさんは78歳で亡くなりました。その間、私はストレスもなく安らかな日々でした。34年間は1日10回の電話もあり幸せでした。
 その方は、甲子園に出るほど野球が好きで、マージャンも大好きな人でした。大正8年生まれで東大の法学部出身でした。
 戦争中は大学を繰り上げ卒業し、軍隊に入り沖縄へ行き軍務に就いていました。戦争後は、郵政省に入り官僚として定年まで勤めあげました。



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