渋谷駅前のんべい横丁酒処「水車」
おかげさまで創業48年。銘酒と心づくしのお料理を用意してお待ちしています
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第17回 父の看病をしながら小料理屋で働く日々
 池袋にいた頃は、お金を兄や弟の里親に都合していて、なかなか貯まらなかったので、夢のために池袋から渋谷に来て、旅館で働くことにしました。

 渋谷の旅館で働いているとき、父が病気で倒れ、吐血しました。洗面器一杯の血を吐いたと、兄がお店まで飛んで来たので、すぐに帰りました。十二指腸潰瘍でした。父の面倒を見なければいけないので旅館はやめて小料理屋で働くことにしました。昼間は父の世話をして、夕方から終電まで小料理屋で働くといった毎日でした。

 あるお店では、15時頃にお店の上にあるママの家で洗濯をしたり掃除をしてから、お店の準備をしたものです。もちろん当時は洗濯機などない時代ですから、たらいで手洗いです。
それでも「いずれ店を出したい」という目標があったので、苦にはなりませんでした。

 旅館では住み込みで足掛け3年働きました。一生懸命に働いて、お金も残しました。その後、通いで小料理屋で働き、現在のお店を持つまで3軒くらいのお店でお世話になりました。

 旅館はお給料制でしたが、小料理屋では当時いくら働いても1日250円くらいにしかなりませんでした。今でいうと、3500円くらいでしょうか。ただ、有難いことにご贔屓のお客さんも多く、よくご祝儀を頂きました。手元に残った僅かなお金を貯めて、着物を買ったり髪を結ったりしていました。

 父は、倒れた後に手術をすると元気になって働けるようになりましたが、その後も身のまわりのお世話などは、父が亡くなるまでしていました。
 夢も諦めていませんでしたが、父を助けたいという一心でした。

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第16回 従兄弟の復員

 昭和21年、まだ世田谷瀬田に住んでいたときのことです。13歳ほど年上の従兄弟が、ビルマから復員してきました。

 復員兵は、故郷に戻っても、家族が新しい家庭を作っていたり、家族が亡くなっていたりすると、帰る家がなく親戚中をたらい回しにされ、面倒がられていたものです。

 南方のジャングルなどに長期に渡って留まっていた兵隊は、マラリアを患っていた人も多くいました。病気を患っていると、家族や親戚が面倒を見きれずに病院に預けてしまうことも多かったのが実情です。

 従兄弟もやはり、戻ってきてすぐマラリアを発症して、40度ほどの高熱が繰り返し出て、病院を出たり入ったりしていました。高熱が出るとすぐ病院に入れられ、親戚中を転々としていました。

 その後、行くあてがないということで父を訪ねてきて、うちで面倒を見ることになりました。
そのとき父は私に「かわいそうだから預かってあげようか?」と言いました。疎開して親戚にお世話になったこともある私たちは、人を助けることは当たり前のように感じていました。

 彼は、等々力にある食糧配給公団の玉川支所に就職し、その後、父と伯母がお世話をして、用賀の和田家の長女と結婚して、幸せな家庭を築き上げました。彼が結婚するまでの1年ほどを3人で一緒に暮らしました。

 当時の復員兵は、お国のために働いて大腕を振って帰ってはきたものの、行くところがないと、親戚を頼るしかなかったのです。
 帰る家がないというは辛いことだと思います。最終的は、身内だけが頼りでした。
 血は水よりも濃い、ということでしょうか。


第15回 池袋で過ごした4年間
家出をして、池袋の復興マーケットの中の小料理屋で働いていたときのことです。とても影響力のある人が私を心配して、見守ってくれていたことが後になって分かりました。それは、池袋で顔の利く親戚の人でした。

そのお陰で、周りのみんなが優しく声をかけてくれるようになりました。後でわかったことですが、その方の知り合いがいつも見守ってくれていたようです。そのため、ヤクザや愚連隊は私に一目置いていたようです。

当時、朝鮮は日本の戦争中は統治下にあったため、そのまま多くの朝鮮人が日本に住んでいました。特に池袋や新宿には多く、ヤクザの幹部になる人もいました。

池袋の小料理屋で働かせてもらった4年は大きな騒動もなかったけれど、それでも幸せではありませんでした。
住み込みで働いていましたが、兄や弟の里親、当時の恋人など、みんな私の居場所を知っていて、来てはお金を都合してくれという毎日でした。働いても働いてもお金が出て行くばかりでまったく貯まりませんでした。

そんなことが3年続き、「ここにいつまでいても出世の道ではない」と、誰にも行き先は言わずに池袋を離れる決心をしました。20歳~24歳までを過ごした池袋での日々は、周りの人たちには恵まれていましたが、とても暗い4年間でした。

私は渋谷に行き、旅館の住み込みの仕事を見つけ、すぐに働きはじめました。渋谷での生活は収入も安定していましたので、その後はずっと落ち着いた明るい人生を送れることになりました。


第14回 二十歳の家出その2
 家を出てから、私の人生の自立が始まりました。

 行くあてがありませんでしたので、2日間くらい旅館に泊まって仕事場を探しました。終戦後の旅館は、バラック小屋のような建物ばかりでした。しっかりした作りではなく、部屋には鍵がないに等しく、恐れはありましたが、泊まらざるを得ませんでした。

 泊まった晩のこと、顔見知りの人に部屋に入られ、暴力的に襲われました。とても怖かったのを覚えています。当時、このようなことはよくあったと思います。私だけでなく、世の中の人みんなが大変なときでした。もっと怖い目に合った人もいたと思います。

 それでも、泣いてばかりはいられませんでした。襲われたことよりも、何が何でも生きなければいけない、という気持ちの方が強く、私は仕事を探しました。終戦後という状況がそうさせたのだと思います。みんなが必死で頑張っていた時代でした。

 縁あって翌日すぐに仕事が見つかり、ホッとしました。池袋の小料理屋さんです。ここは、池袋の西口にあった復興マーケットの中にありました。住み込みで働き、ここで4年ほどお世話になりました。

 人生は、一人ひとり違う生き方かと思いますが、家出をした私は、自立するしかありませんでした。私にとっての自立とは、誰にも助けてもらえない、自分で考えて自分で生きていく、ということでした。一生懸命働いて、運や縁を待つしかありませんでした。

 縁あって人と出会い、陰ながら支えてくれる人がいて、生きていけるのだと思います。


第13回 二十歳の家出その1
 昭和24年の8月、私は家を出ました。
 ちょうど二十歳のときでした。

 その頃、PX(米兵向けのお店)に勤めたくて、洋裁学校や英語の学校に通っていました。
 PXの職員は、当時花形の職業で女性たちの憧れでした。 定職について豊かな生活を送りたいという思いや、物が何もない時代でしたから、タバコやチョコレートなど何でも揃っているPXはそれはもう夢のような場所でした。


 洋裁学校の帰り道、友人と池袋へ洋裁道具を買いに行ったときのことでした。途中で友人の知人と知り合いました。東京中探してもこんな人はいないだろう、というような背が高くて素敵な雰囲気の好男子でした。
私たちは再会を約束しました。

 昔は携帯電話はもちろん家に電話もなかった時代ですから、次に会う日はお互い約束するしかありませんでした。
 再会のとき、池袋の公園に腰掛けて、時間が経つのも忘れてお喋りをしました。 日が暮れて、最終電車にも乗り遅れ、当時はタクシーなどなく人力車しかなかったので困りました。

 旅館しか泊まる所がなく、一夜を過ごしましたが、貞操はお互いに守りました。いくつかの甘い恋もしましたが、このときはちょっと深くてプラトニックな恋でした。

 父や伯母は一晩帰って来なかったことで、私を責めました。 毎日毎晩責められるのが辛く、やむなく事情は何も言わずに家出して、その後すぐに勘当されました。


 夕方になると、どこかで秋刀魚の匂いがしてきて、帰りたくも帰れなく、どのくらい泣いたかしれませんでした。
 志を立てて、出世するまでは帰れないと思っていました。




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