渋谷駅前のんべい横丁酒処「水車」
おかげさまで創業48年。銘酒と心づくしのお料理を用意してお待ちしています
プロフィール

suisha

Author:suisha
酒処「水車」へようこそ!
03-3407-3694



最近の記事



最近のコメント



FC2カウンター



リンク

このブログをリンクに追加する



最近のトラックバック



月別アーカイブ



カテゴリー



ブログ内検索



RSSフィード



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


第12回 水車の名前の由来
 戦後数年してから、和光にある母の実家は割烹料理「水車」を始めました。高度成長期に入ろうとしていた頃でした。
「水車」という屋号は、敷地内に川が流れていて、そこに大きな水車があったことに由来しています。近所の小作の人たちは、よくお米をつきに来ていたそうです。

 私の現在のお店「水車」の名前は、ここから来ています。
奥座敷から見える水車のある風景が、なんとも風情があって気に入っていたこともありました。庭の奥に水車が見え、その向こうに田んぼが広がっていて、夜は庭の端々に灯る夜光燈がとても素敵でした。

 渋谷の「水車」という場所は、私の仕事場であり、普段はなかなか言えませんが、その景色と一緒に母や叔父がいつまでも身体にこびり付いている名前でもあります。

 誰もが何か、そうやって引きずっていくもの、言い換えれば尊いといったらおこがましいかもしれませんが、そんなものを抱きながら生きているように思います。

スポンサーサイト

第11回 叔父の想い出
 昭和20年の終戦の年の11月、和光市の叔父が他界しました。

 私は16歳で、世の中はまだまだ大変な時でした。

 戦争中に叔父が自宅療養していたときには、熱を取るといわれていた馬肉の湿布をいただきに、近所の屠殺場まで自転車で取りに行ったり、叔父が入院していたときには、叔母に頼まれてジャガイモやカボチャを蒸かしたものを毎日、病院に届けたものです。

 戦後も、叔父が熱が出たというと、世田谷の瀬田から和光まで氷を届けによく行き来したものです。

 戦後3~4年経ってからは、徐々に薬も入って来るようになりましたが、 終戦直後は、日本に薬がほとんどないような状態でした。 風邪や結核、淋病などの感染病にはペニシリンが必要でしたが、1本が当時の値段で3千円でしたから、お金のない人は買えずに死んでいくしかない時代でした。

 氷を届けに山坂越えて、田んぼ道を歩き歩きして行ったことをよく覚えています。当時はバスが走っていなかったので、電車で成増駅まで行って、そこから30分くらい歩きました。
最後は、その甲斐も空しく亡くなりました。

 叔父はとても優しく好男子で、私もずいぶん良くしてもらいました。
母が亡くなったとき、小学校2年生だった私にオーバーを買ってくれたのが叔父でした。

 昭和20年という年は、一番大変な年だったと思います。


第10回 終戦を迎えて
 何もない時代ですから、サツマイモや野菜などを船橋や津田沼までよく買出しに行ったものです。

 父はタバコがほしくて、東京・世田谷の瀬田に住んでいた父の姉の家に行ったところ、父を可愛がっていた伯母は、ここに住みなさいと言って父を離しませんでした。その後すぐ、和光市にいた父と私は瀬田に移り住みました。

 瀬田という所は今では住宅街ですが、当時は農家が多く森や畑がほとんどで、とても穏やかな所でした。ですから、食べる物には何も不自由はしませんでした。当時畑があるということは、食べ物があるということですから、それだけで素晴らしいことでした。

 伯母の家は商売をしていて、タバコから、帚やバケツなどの雑貨の類い、それに米屋と、大きく商っていました。男たちは兵隊に出征してしまったので、伯母が仕切ってやり繰りしていました。畑もあり、私も畑仕事を手伝ったりしていました。

 瀬田に移ってまもなくの昭和20年8月15日の正午に終戦を迎えました。日本国中がラジオの前に集まって、ラジオから流れてくる天皇陛下のお言葉に耳を傾け、終戦の玉音放送を聞きました。
「・・・堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス・・・」。

 私は16歳で、何を言っているのかさっぱり分かりませんでした。父と伯母は一言だけ「負けたのよ」と、いいました。

 その日の夕方から、電灯やローソクの灯が漏れないように掛けていた、灯火管制の真っ黒の幕を掛けなくてもよくなりました。夜は、すぐ逃げられるようにと普段着のまま寝ていましたが、「今晩から寝巻きだけでゆったりと寝られるんだ」と思ったことを覚えています。

 終戦を迎えてもなお、これからどうなるかが心配で、しばらくは無言の日々が続きました。その後のことが心配だったのは、終戦ではなく敗戦だったためだと思います。

 しかし、世の中が良くなっていくような夢を誰もが持っていました。仕事を手にしなければ、収入を得なければと、とりあえず女性はみんな洋裁学校に通っていました。私も洋裁やお花、英語など、収入に繋がるようなことは全部やりました。
私の人生は、戦争が終わって、ここから始まったように思います。

 兄は、静岡・清水の日立の青年学校から帰ってきました。お国のためにならなかった自分を悩んでいたのでしょうか・・・・・・その後ヒロポン中毒になり、家族にお酒に代えたらと言われ、今度はアルコール中毒になり、それはそれは大変でした。

 父の従兄弟の間瀬徳三は、東大法学部から三菱重工の所長となり、戦車を作っていました。そして終戦まもなく、埼玉・東松山の別荘の応接間でピストル自決をしました。
早まったと、親戚は言っています。でも当時、戦車を作っていたという事だけで大変なことだったと思います。

 戦後何年間も、誰もが大変なときでした。


第9回 戦禍の中で
 私の兄は昭和2年生まれで、戦禍の一番激しいときに、父に相談もなしに特攻隊に志願しました。兄が15、16歳のときだったと思います。

 特攻隊に志願したということは、「お国のために死んで帰ってくる」ことを意味していました。国のために尽くしたかったのだと思います。


 私が、お帳場の引き出しを開けたときのことです。髪の毛が、半紙に包んで入っていました。ビックリして父に見せると、とにかく父も驚いて学校の先生に相談して、特攻隊への志願は取り止めることになりました。

 兄は長男でしたから、もちろん父は跡取として考えていました。
当時、お米の配給をしていた米穀商という職業は、跡取がいないと大変なことになりますので、兄に説得しましたが、お国のためと思い込み、父に反抗しはじめました。
 兄は、教育に洗脳されていたのでしょうか……。


 志願は何とか食い止めましたが、兄はその後、東京・亀戸の日立青年学校に入りました。それから2年が経った頃、激しい戦禍のなか、日立青年学校は静岡・清水に移され、兄は親元を離れました。
青年学校は、働きながら教育を受ける場所でした。辛いこともあったのか、兄はたびたび家に顔を見せていました。
 兄は清水で終戦を迎えました。今思えば、17、18歳の青年の頃のことです。


 昭和19年には強制疎開(建物疎開)がはじまり、1週間以内の疎開命令が出ました。父と二人、母の実家があった和光市に疎開し、父は毎日和光から亀戸の配給所へ通い、朝は6時に出発し、夜は11時に帰って来るという生活でした。
強制疎開というのは、避難所などを作るために建物を壊すための疎開です。つまり、家はなくなるのです。

 祖父が、戦況も落ち着いているようだから亀戸に帰っても大丈夫なのではないか、といい一旦帰ったときのことでした。 亀戸に帰るといっても家はないですから、長屋を借りて暮らしていました。その後まもなく、東京大空襲になりました。

 昭和20年3月9日の夜からの出来事です。その年の8月15日に終戦を迎えました。




上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。