渋谷駅前のんべい横丁酒処「水車」
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第8回 今でも戦争を引きずっています.
 私は未だに太平洋戦争を引きずっている人生です。

 平成20年8月の夏、従兄弟の友人から誘われて、栃木県・那須にある従兄弟のチョコリン村というキャンプ場に行きました。土曜日の午前0時に水車を出発して、午前3時すぎに到着しました。

 ここは、従兄弟の憩いの場所だったのですが、会いたかった従兄弟がいなかったこともあり、急に戦争時代の疎開をしていた頃を思い出してしまいました。
 悲しくて、東京に戻りたくなり、皆さんにご迷惑をおかけした思い出があります。朝になって、ベランダで生ビールを飲んでからは落ち着きを取り戻しました。

 東京から田舎に行くということ。
 着いたときに従兄弟がいなかったこと。
 外で大勢で飲食するということ。

 こういったキャンプ場の様子が、疎開時代を思い起こさせました。

 これは私が戦争の記憶を背負っているゆえなのでしょうか。
 ただ戦争、疎開といった、怖さ、嫌な事を引きずっているだけなのです。悲しい人生ですね。

 特攻隊に志願した兄も戦争を引きずって、お酒に頼っていました。
 兄は父が亡くなって、ぴたっとお酒を止めましたが、そうとう苦しんでいたと思います。戦争を体験された皆さんは、それぞれご苦労をされたと思います。

 きっと人から見たら、何でもないような幸せな人生に見えるかもしれません。私も過去の人生について、皆さんに言ってはいないので仕方ないですね。

 でも今は、「私が体験したことを伝えなければ生きている甲斐がない」と思い、こうして書いています。若い皆さんには「戦争は、大変なことなのだ」ということを知っていただき、二度と戦争を起こしてほしくないのです。

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第7回 戦争へと向かって行った時代
 時代はどんどん変化していきます。戦争がはじまる少し前の昭和13年。この年に、国家総動員法が制定されました。

 私は、小学校2年生になってすぐ、亀戸第2小学校から、新築された竪川小学校に転向しました。子供ながらに教育が何となく変化してきたことを感じはじめていました。

 学校にはプールがあり、夏休みの間、父が月謝を出してくださるのでプールに通っていました。当時、学校にプールがあるのは珍しく、入るためには月謝が必要でした。私は潜水が得意で、いつまでも潜っていられました。「水泳は大事だから行きなさい」、と父が言うので通っていましたが、後になって思えば、戦争に備えていたのかもしれません。

 朝の朝礼には、東条英機内閣総理大臣がたびたび朝礼台に上って、生徒に教育をしていました。運動会などの行事には、いつも出席されて、私たちは、見に来てくださっているからと頑張ったものです。

 運動会ではよく、「愛国の花」を歌いました。皆さんに、この歌を知ってほしいと思います。

1番はこうです。

真白き富士のけだかさを
こころの強い楯として
みくにつくす女等は
輝やく御代の山ざくら
地に咲き匂う国の花

 愛国の花をインターネットで調べていただくと、いろいろ出てきますので、ぜひご覧になってください。

 男女共学ではない時代でしたので、女子は、長刀や鉄棒などの練習をたびたびしていました。刻々と戦渦の激しさを子供ながらに感じはじめていました。
 5年生の頃から、近所の小学生を集めて登校する「集団登校」がはじまり、その分団長をしていた私は、年下の子たちを守らないといけない、と考えるようになりました。

 学校では、クラス62人の中の列長(列の長)もしていましたので、作文などの宿題に丸をつけたり、とても忙しい朝でした。母も2年生のときに亡くなっていましたし、店の家事手伝いをしながら、夜寝るのは12時頃で、朝は6時に起きるという小学校時代でした。

 その時代、「とんとんとんからりと隣組、回してください回覧板、知らせられたり助けたり」といった歌もあったくらい、戦争が激しくなる中で、四六時中となり近所で回覧板が回っていました。
 食糧配給の知らせなどは、米穀商をしていた父が書いて回していました。近所の付き合いがなかったら、ご飯も食べられなかった時代だと思います。となり近所の人たちとは、いつも一緒の心だった時代です。


第6回 父の生い立ち
 私の父は、明治29年生まれです。

 愛知県半田市亀崎で、9人兄弟の末っ子として生を受けました。当時、間瀬家は徳田屋という高級商人宿をしておりました。先祖は、京都の公家から養子に入った人でした。
 地元では、「損はとっても徳田屋さんだよ」と歌われた旅館でした。子供の頃、冠婚葬祭の折に何度か行ったことがあります。徳田屋の孫だというと、そう歌ってもらえました。子供ながらにそんなことを覚えています。

 亀崎は海沿いの町で、自宅のすぐ裏は海岸でした。
 そんな環境で育った父は、とても泳ぎが好きな人だったようです。

 5月3日に行われる「潮干祭り」は、今でも有名です。何台も行列した山車が、海岸まで次々と下りて行って、またその山車が神社に引き上げていくのです。大人になってからは父のお店の仕入先のお客様を連れて、お祭りを見によく行ったものです。

 また、「半田亀崎女の夜這い」といって、女性が強い地方だそうです(笑)。伯母たちを見ていましたから、そのくらい女性がしっかりしている町だということは頷けます。これは、伊勢音頭の詩の一部だともいわれているようです。

 父は末っ子でしたが優秀だったようで、徳田屋の相続人で、間瀬家の本家でした。習字がとても上手で、「どうしてそんなに字が上手なの」、と訊ねたことがあります。父は「宿帳を見て練習をした」、といっていました。
 本も好きな人で、本屋さんで本を読んでいると、「お昼までに持ってらっしゃい」と言って、よく貸してくれたそうです。

 伯母にあたる間瀬くには、大正天皇にお遣えし、生涯貞節を通した人だったそうです。
 大正天皇がご逝去なされた後は、神田で米問屋をして、優秀な父を東京に呼び寄せました。その伯母にぜひと望まれて、父は10代で東京に出ることになりました。
 父は、どうしても故郷の半田にいたくて、お百度参りをしたそうですが、その願いは叶わなかったようです。

 その後、東京の亀戸で米穀商を営むこととなり、27歳で結婚しました。


第5回 昭和20年3月の東京大空襲のこと
 私の人生の中で忘れられないのは、東京大空襲です。 

 それは、昭和20年3月9日、午後9時30分のことでした。

 最初にB29が1機、房総沖方面から進入し、その30分後に、B29の後続機が次から次へと飛来し、焼夷弾を雨のように落とし始めました。
 そのとき、私は15歳でした。

 人が逃げられないように、外側から中央へ、円を描くように焼夷弾が落とされ、火が渦を巻いて人間を追いかけるのです。

 近所の家が燃えているのが見えました。
 家の外にいた私は、焼夷弾が落ちて、火がそばまで迫ってきているのを感じ、逃げやすい靴に履き替えようと、家の中に入ったときのことでした。

 「早く逃げなさい」と、父の声がしました。

 米穀商をしていた父は、お米を一俵を掻巻に包んで、自転車にくくり付けていました。
 父に「堅川の六の橋を渡って浦安の方へ逃げなさい」と言われました。

 荷物をまとめて、私は父よりも先に家を出て逃げました。
 六の橋が落ちたというので、逃げ場を変えました。でも、それはデマでした。

 小学校からの通い慣れた道でしたので自分の機転で行動しました。

 途中、赤ちゃんをおぶって、5歳の女の子と、6歳の男の子を連れた近所のおばさんと一緒に逃げました。

 20分くらい歩いたときでした。
 そのおばさんは、もう駄目だと原っぱにしゃがみ込んでしまって「先に逃げて」、と言われました。
 おそらく力尽きたのでしょう。火が追いかけてくるのですから、逃げ切れるかどうか分からないと思ったのだと思います。
 
 私はとっさに「2人の子供は、私が連れて行きますから」と言うと、おばさんは、ハッと我に返ったのか、気を取り直して立ち上がりました。


 小松川の橋の付近まで来ると、急に風向きが変わりました。風向きは変わっても、橋の向こうはやっぱり燃えていました。
 そのため、橋の上は大勢の人でごった返していました。防空頭巾を深く被っていても、飛んでくる火の粉に目も開いていられないくらいでした。火の粉を払い払いしながら橋の上にじっとしゃがんでいました。

 その夜は小松川の橋の上で過ごしました。

 夜が明けると、「避難してください」と言われ、橋を渡った左側にあった小松川の学校に避難しました。
 暖かい毛布と、おむすびが配られ、怪我人もぞくぞくと運ばれてきました。
 
 私は父のことが心配で心配で、泣いてばかりいました。

 学校で一夜を明かし、翌朝、焼け跡に行きました。すると、父とおばさんの家族が焼け跡に立っていました。父が生きていたことが、何より嬉しかったです。父はその日、亀戸中私を探し回ったそうです。

 すぐその足で、山手線の秋葉原まで歩き、疎開していた和光市の祖父の所へ帰りました。

 途中、線路脇やあちらこちらに人間の死体が炭団のように山積みになっていました。
 石油をかけて焼いていました。トラックで、運んだのだと思います。

 一夜にして、東京は焼け野原でした。




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