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渋谷駅前のんべい横丁酒処「水車」
おかげさまで創業48年。銘酒と心づくしのお料理を用意してお待ちしています
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第49回 戦後70年を振り返って
 「戦争とは、何か?」。それは人を不幸にするものです。
戦後、どこの家庭も普通ではありませんでした。それが、どういう意味かと言えば、戦争のおかげで何もかもうまくいかず、結果として「波瀾万丈の生き方」になってしまったという事です。

生活が180度変わってしまいました

 終戦になり、たくさんのアメリカの人たちが日本に来ていました。よい就職口といえば、PXやメイドでした、英会話が必要でした。
私は、父に学費を出してもらい英会話の学校に行きました。洋裁を習いたくて、渋谷の実践女学校へも行きました。
何も出来ないと誰も使ってはくれません。この時代は誰もが、働き口を探して、いろいろ努力をしていたと思います。

つまり、食べて行くために、何とか身を立てようと必死でした。私もいろいろな習い事をしましたが、20歳そこそこの娘が、そう簡単に上手く行くはずもありません。
英会話や洋裁、何もやっても専念できませんでした。父には大変迷惑をかけました。

洋裁の学校へ通っていた時に、材料を買いに池袋に行き、ある人との出会いもありました。けれど、恋をするにも、どうすることも出来ない時代でした。つまり、「時代が、移り変る」ときでした。終戦後どう生きるかによって、人生がスッカリ変わる時代でした。

戦争は人の人生を変えてしまいます

戦後、働かざるを得なくなり、また、家にいることも出来ずに、昭和24年の8月に私は家を出ることを決意しました。
ここから、私の波乱万丈の人生が始まりました。
私は、今でも戦争を引きずっています。戦争が起こったことによって、人生が変わってしまったということです。戦争を経験した人は誰でも、戦争を引きずっているのではないでしょうか。男性は、いくら学歴があってもなかなか職に有り付けない時代でした。

親戚やご先祖様に守られた人生でもありました

ただ、私の場合は、守られていたことも事実です。
若くして家を出たこともあって、親戚の皆さんが陰で見守ってくれました。
働き出して、落ち着いた先は池袋でした。母の実家も近く、良く知っている土地でしたし、ある人との出会いもきっかけでした。
あとでわかったことなのですが、親戚が近い所に住んでいたこともあり、叔父さんたちが陰で見守ってくれていたのです。

先日の渋谷新聞では、池袋で一番だった、と書いて頂きましたが、守られていたからこそ、一番だったと思っています。

戦争になり、戦後は、人生がスッカリ変わってしまいましたが、親戚やご先祖様のお陰で不思議と守られていたと思います。改めて、親戚やご先祖様に感謝しています。

そして、改めて「戦争は、人生をガラリと変えてしまう」という事と、その後の人生、「一生、戦争を引きずって行く」という事を日本の歴史とともに知ってほしいと思います。

来月8月15日は終戦記念日です

男性は、16歳頃から特攻隊に志願したり、46、47歳くらいまでの方は皆戦争へ行きました。父は米穀商(米屋のことを当時はそう呼びました)をしていましたが、「在郷軍人」と呼ばれ、お国のために日本に残って働きました。
当時私は15歳でした。戦火のなか、近所の子供たちを連れて逃げた時のことや、やっと逃げた避難場所の小松川の学校の講堂で、「東京が全滅だ」と聞いたときに「父は無事だろうか」と心配で心配で寝れませんでした。
父が、2日間私のことを東京中の避難場所を探し続けて、やっと会えたときのことが今も鮮やかによみがえります。遠くの方に、一緒に逃げた人のご家族と父の姿が見えたとき、「あぁ、お父さんが生きていた」と、泣くほど嬉しかったことをよく覚えています。

来月の8月15日で戦後70年ですが、今でも昨日のことのように思い出します。歴史は繰り返す、と言われますが、二度とこんな歴史は繰り返してほしくないと思っています。

今の人は、選挙権があって自由でいいですね。昭和20年12月に女性にも選挙権が与えられましたが、戦前・戦中は、選挙へ行きたくても女性には選挙権がありませんでした。選挙権を大切にして、どうか選挙へ行って下さい。

仕事にしろ、恋愛にしろ、大変なことが多い時代でした。私は、戦後、家出をして苦労した人生を送りましたが、良いこともありました。本当に立派な方にめぐり合えたことです。34年間お付き合いをしていて、結婚も申し込まれました。彼に出会えたことは幸せだったと思います。

今は亡き人ですが、私が現在あるのは、陰で支えて下さった彼のおかげだと思っています。

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第48回 東京大空襲とともに想い出す”大楠公の歌”
 私の年代は、歴史を大切にして来ましたが、戦後は違ってきています。
戦前、戦中、戦後と歴史の捉え方が変わってきたのかもしれませんね。戦時中は、歴史とはいわず国史といっていました。日本国の史ということです。
 その当時、私が小学校の頃に盛んに歌った歌があります。教科書に載っていて、学芸会などでも学んだ歌です。

 『大楠公(だいなんこう)』という歌で、楠木正成と息子の正行の別れを歌った歌です。それは、涙なくしては歌われません。

 昭和20年3月10日、東京大空襲がありました。
 疎開命令が出てからしばらく経った戦火もいったん落ち着いていた頃で、私と父は疎開先の和光市から、ちょうど亀戸に戻ってきていたときでした。

 3月9日の夜に最初の空襲があり、父は「急いで逃げなさい」と私に言いました。私は近所の家族と一緒に小松川の橋で夜を明かしました。その後、学校に避難しました。二晩、父とは会えないまま過ごしました。

 翌日、学校の大きな講堂に次から次へと、怪我をした人たちが担架で運ばれてきました。父もどこかで怪我をおってはいないだろうか、父は無事だろうか、死んでしまっているのだろうか、そう考えると眠れずに、泣いて夜を過ごしました。
 そのとき父は亀戸中、東京中を、2日間私を探し歩いていたそうです。

 2日後の11日に、私は一緒に逃げた近所の家族と避難していた学校を出て家に戻ってみました。
 亀戸は何もない焼け野原になっていて、ずっとずっと遠くまで見渡せました。 そして、遠くのほうにいる父の姿を見つけました。
 そのとき、お父さんが生きていた、生きていてくれて良かった、という想いでいっぱいでした。父もそうだったと思います。

 父は私に「早く田舎に帰りなさい」といってくれました。
 米穀商をしていた父は、米の配給など残ってやらなければいけない仕事、父の役目がありました。その父と再会したときのことが、大楠公の歌の歌詞そのままで、自分の体験と重なって、今でも思い出すと涙をこらえることができません。

 正成涙を打ち払い
 我子正行呼び寄せて
 父は神戸へ赴かん
 彼方の浦にて討死せん
 汝はここまで来れども
 とくとく帰れ故郷へ
               (大楠公の歌より)

 その後、私はその足で田舎のある和光市まで帰りました。亀戸のあたりは電車が止まっていたので、亀戸から電車が走っているお茶の水だったか、秋葉原まで一人で歩いて行きました。

 途中、いろいろな光景を目の当たりにしましたが、なかでも鮮明に残っているのは、空襲で死んだ人たちが山のようになっていたことです。死んだ人たちが炭団のように山積みになって、焼け野原のあっちにもこっちにもあるのです。全身に火傷をおった人たちも大勢いました。着ていたものは全て焼け、全身の肉がなく真っ黒に焼けこげ、虫の息だけをしている人もいたのです。

 当時、私は15歳でした。一人、そのなかをただただ歩き、今を生きることだけを考え駅を目指して歩きました。私は生きていてよかったと思い、生きることだけが精一杯でした。

 同年代の人のなかには、二度と戦争にあいたくないから早く死にたいといっている人もいます。戦争を経験している人間の本心だと思います。

 8月15日は終戦記念日でしたが、私にとっては思い出したくない日です。それはそれは酷い体験をしているので、8月15日でなくても、ふと一人でいるとき、当時のことを思い出すことがあるからです。頭のなかに当時の様子がしまってあって、普段はそれにフタをしているだけなのです。大楠公の歌を思い出せば、当時のことが昨日のことのように蘇ってきます。私たちは、今このときも戦争を引きずっている日々なのです。

 ただ、私は戦争のことを次の世代に伝えなければいけないと思っています。今の若い人たちに伝え、若い人たちから次の世代の子供たちへ歴史と戦争、真実を伝えてほしいのです。そして二度と戦争を起こしてほしくないのです。
戦争は本当に人生を狂わせます。戦争を防ぐにはまず選挙に行ってほしいのです。

 親があって子供がいて、子供がいて親がいます。平和な世の中が続くよう、戦争、歴史を知ってほしいと思っています。


第47回 「のんべい横丁」は、懐かしい裏町の雰囲気が…
 繁華街には、表通りがあって裏通りがあります。

 戦後は、表通りでも家も建たない屋台の町でした。三畳程度の屋台が軒を連ね、色々な商売をしていました。

 戦後すぐは本当に混乱の時代で、めちゃくちゃでした。あくどいやり方をしていたお店もありました。池袋、新宿、渋谷など駅前は何処もそうでした。

 新宿には、どぶろくを売る人たちがいました。流しの人たちもいました。流しは今やユーセンに取って代わってしまわれました。

 いつしか表通りは立派な建物が並ぶようになって、裏通りにのんべい横丁のような飲食街ができました。
裏通りをよく表現した「裏町人生」という曲があります。

 暗い浮世の この裏町を
 覗く冷たい こぼれ陽よ
 なまじかけるな 薄情け

 裏町とは、そんな場所です。

 お店の人たちは、明るい笑顔でお店に立っていますが、それなりの人生があって此処に来ている人たちで、皆一人で戦っています。

 私が渋谷に出て来た頃は、町はだいぶ良くなってきていました。昭和29年頃かと思います。その頃からは、きれいで安全で、いい方へいい方へと変わっていきました。客層も良くなってきて人生の刺激もありました。

 私がいた渋谷の小料理屋さんは、お給料は安かったですが、とても良い修行になりました。環境が良くてお給料が良い所はないですね。

 昔の渋谷は暗い街でしたが、とても品の良い街でした。今は30代の方が多く、明るい若者の町ですね。

 「裏町人生」の4番はこうです。

 霧の深さに 隠れて泣いた
 夢が一つの 想い出さ
 泣いて泪が 枯れたなら
 明日の光りを 胸に抱く

 とてもロマンチックですね。

 そんな時代が懐かしくも思います。時代は変化していきますね。変化があっていいのだと思います。

 未来を生きるために、皆さん努力しているのですから。


第46回 大空襲で学んだ避難の大切さ
 相変わらず地震は多いですね。

 お店にいて地震が起きたときは、まず戸を開けます。
 そして、線路の下のトンネルの入り口の手前あたりに逃げるようにしています。地震など何か起きたときには、安全な逃げる場所を前もって考えておくことが必要だと思っております。

 3.11の際にあるおばあさんが、地震が来たから「すぐ津波が来るから逃げよう」と言ったそうですが、周りの人たちは「大丈夫だよ」と言って逃げ後れてしまったという話を聞きました。

 私は大空襲のときに、近所のおばさんと彼女の子供二人を連れて一緒に逃げて助かった経験があります。火がそこまで追いかけて来ていたときです。
 おばさんと二人の子供が力尽きて座り込み、逃げることを諦めかけて「先に逃げて」と言われたときに「私が二人を連れていくから一緒に逃げましょう」とおばさんに声をかけました。すると、おばさんは我に返ったので、私は子供たちを連れて一緒に逃げました。

 そのときの状況と経験から、とっさに判断して逃げた方向も良く助かりました。私もくじけていたら、きっと死んでいたことでしょう。

 津波が来ると言ったおばあさんも経験をしていると思います。知っている人たちの言うことを聞くことが大切です。

 そして「逃げること」が大切で、必要です。何か起こったときに、今の若い人たちには逃げることの大切さを知ってもらいたいと思っています。同時に助け合いも必要です。

 ただ、アルバイトの方たちには、地震が起きたときには自分だけでもいいから逃げて、と教えています。また、通りで地震に合った場合には、一番しっかりしたビルに入り込み、様子をみながら逃げなさい、と教えています。

 普段から、そういった知識を持っていることが大切です。
 適切な場所に避難をすることです。


第45回 スイスの人も尊敬する天皇陛下
 先日、スイスからのお客様が見えました。日本に観光に来ているという4人組で、お一人は日本からスイスへ嫁がれた方でした。

 2月にスイスの大統領が来日されたそうで、天皇陛下が、それはそれは素晴らしい歓迎をなさって、そのおもてなしがスイスでは大好評になっている、とのことでした。

 聞けば、今年はスイスと日本が国交を開始してから150周年という記念すべき年なのですね。スイスでも日本でも、関連したさまざまなイベントが催されているそうです。

 それにしても、天皇両陛下はとても素晴らしいですね。
 先月は、皇居内の桜を見せて下さったり、優しいお人柄を感じます。自分たちばかりが独り占めして見るのではなく、みんなに見せたいという想いが伝わってきます。

 こうして国と国が仲良くしていけるのも天皇家があるからなのではないでしょうか。スイスの人たちは皆さん、日本の天皇家を尊敬していると仰っていました。スイスという国は平和主義で、戦争など全くしたくない国だそうです。

 こういったお話を聞くと、天皇家があるからこそ今の日本は安定しているのかもしれません。

 平和への近道は、戦争などを繰り返すことなく、時間はかかっても国と国とがこのように歴史を少しずつ築いていくということではないでしょうか。