渋谷駅前のんべい横丁酒処「水車」
おかげさまで創業48年。銘酒と心づくしのお料理を用意してお待ちしています
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なんで、この世の春が来ないのでしょうか。
なんで、この世の春が来ないのでしょうか。平成27年10月31日のハロウィンの日は悲しい出来事でした。

 渋谷のスクランブル交差点は身動きが取れないほどの人混みでした。水車のお店でお客様にお出しする食材の仕入れにも困難でした。

 重たい荷物を持ち、通りを歩くことさえ大変でした。

 夕方頃から、渋谷は人の波で、前に進むのも困難な状況でした。
 警察官は200人以上、大型車は数十台も出動して、秩序を維持しようと懸命に働いていました。
 警察官でお怪我をなさった人もいるようでお見舞い申し上げます。

 その夜は午前4時になってもタクシーは拾うことができず、疲れた体で246通りを歩き、やっとタクシーに乗れました。

 皆々様からのお見舞いに、心よりお礼申し上げます。

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水車は49周年を迎えました
10月22日、水車は49周年を迎えることが出来ました。
これも一重に支えて下さった皆様のお陰と感謝いたしております。

49年、長いようでアッという間でした。

来年は、50周年を迎え、出版も控えています。

生きるということは、人のために尽くすということです。
この世に生かしてもらっている間は、これからも人様のために頑張って行きたいと思っています。

近ごろは手が足りず、大変な毎日ですが、皆様に愛される水車でいられるよう頑張っております。

お近くにいらした際は、ぜひお立ち寄り下さい。
49年目も変わらず水車を可愛がって頂けますと幸いです。

photo49.jpg
金井さんからいただきました。



来年、水車は50周年を迎えます
 来月10月22日で、水車は49周年になります。
 これも一重に皆様のお陰と感謝いたしております。

 そして、来年、50周年を迎えるにあたり、今までブログで綴ってきた「私と水車」の記事を本にまとめたいと考えております。

 私は戦争を経験し、今日まで波瀾万丈の人生を送ってきました。
 今は平和な世の中ですが、戦争は二度と起こしてもらいたくないという強い気持ちを持っています。ぜひそれを次の世代の方に伝えたいと思っています。

 まだまだ書きたいことが山ほどあります。ブログもどんどん更新していきたいと思っています。

 上梓することが決まったおりには、改めてまたご案内させて頂きます。


第49回 戦後70年を振り返って
 「戦争とは、何か?」。それは人を不幸にするものです。
戦後、どこの家庭も普通ではありませんでした。それが、どういう意味かと言えば、戦争のおかげで何もかもうまくいかず、結果として「波瀾万丈の生き方」になってしまったという事です。

生活が180度変わってしまいました

 終戦になり、たくさんのアメリカの人たちが日本に来ていました。よい就職口といえば、PXやメイドでした、英会話が必要でした。
私は、父に学費を出してもらい英会話の学校に行きました。洋裁を習いたくて、渋谷の実践女学校へも行きました。
何も出来ないと誰も使ってはくれません。この時代は誰もが、働き口を探して、いろいろ努力をしていたと思います。

つまり、食べて行くために、何とか身を立てようと必死でした。私もいろいろな習い事をしましたが、20歳そこそこの娘が、そう簡単に上手く行くはずもありません。
英会話や洋裁、何もやっても専念できませんでした。父には大変迷惑をかけました。

洋裁の学校へ通っていた時に、材料を買いに池袋に行き、ある人との出会いもありました。けれど、恋をするにも、どうすることも出来ない時代でした。つまり、「時代が、移り変る」ときでした。終戦後どう生きるかによって、人生がスッカリ変わる時代でした。

戦争は人の人生を変えてしまいます

戦後、働かざるを得なくなり、また、家にいることも出来ずに、昭和24年の8月に私は家を出ることを決意しました。
ここから、私の波乱万丈の人生が始まりました。
私は、今でも戦争を引きずっています。戦争が起こったことによって、人生が変わってしまったということです。戦争を経験した人は誰でも、戦争を引きずっているのではないでしょうか。男性は、いくら学歴があってもなかなか職に有り付けない時代でした。

親戚やご先祖様に守られた人生でもありました

ただ、私の場合は、守られていたことも事実です。
若くして家を出たこともあって、親戚の皆さんが陰で見守ってくれました。
働き出して、落ち着いた先は池袋でした。母の実家も近く、良く知っている土地でしたし、ある人との出会いもきっかけでした。
あとでわかったことなのですが、親戚が近い所に住んでいたこともあり、叔父さんたちが陰で見守ってくれていたのです。

先日の渋谷新聞では、池袋で一番だった、と書いて頂きましたが、守られていたからこそ、一番だったと思っています。

戦争になり、戦後は、人生がスッカリ変わってしまいましたが、親戚やご先祖様のお陰で不思議と守られていたと思います。改めて、親戚やご先祖様に感謝しています。

そして、改めて「戦争は、人生をガラリと変えてしまう」という事と、その後の人生、「一生、戦争を引きずって行く」という事を日本の歴史とともに知ってほしいと思います。

来月8月15日は終戦記念日です

男性は、16歳頃から特攻隊に志願したり、46、47歳くらいまでの方は皆戦争へ行きました。父は米穀商(米屋のことを当時はそう呼びました)をしていましたが、「在郷軍人」と呼ばれ、お国のために日本に残って働きました。
当時私は15歳でした。戦火のなか、近所の子供たちを連れて逃げた時のことや、やっと逃げた避難場所の小松川の学校の講堂で、「東京が全滅だ」と聞いたときに「父は無事だろうか」と心配で心配で寝れませんでした。
父が、2日間私のことを東京中の避難場所を探し続けて、やっと会えたときのことが今も鮮やかによみがえります。遠くの方に、一緒に逃げた人のご家族と父の姿が見えたとき、「あぁ、お父さんが生きていた」と、泣くほど嬉しかったことをよく覚えています。

来月の8月15日で戦後70年ですが、今でも昨日のことのように思い出します。歴史は繰り返す、と言われますが、二度とこんな歴史は繰り返してほしくないと思っています。

今の人は、選挙権があって自由でいいですね。昭和20年12月に女性にも選挙権が与えられましたが、戦前・戦中は、選挙へ行きたくても女性には選挙権がありませんでした。選挙権を大切にして、どうか選挙へ行って下さい。

仕事にしろ、恋愛にしろ、大変なことが多い時代でした。私は、戦後、家出をして苦労した人生を送りましたが、良いこともありました。本当に立派な方にめぐり合えたことです。34年間お付き合いをしていて、結婚も申し込まれました。彼に出会えたことは幸せだったと思います。

今は亡き人ですが、私が現在あるのは、陰で支えて下さった彼のおかげだと思っています。


「水車」が渋谷新聞に掲載れました
 先月、渋谷新聞の方が来店され、その後、6月1日付の渋谷新聞に「水車」が掲載されました。

 渋谷新聞は、新聞テイストで渋谷の情報を発信するWEBマガジンだそうです。

 記事には、「のんべい横丁は、渋谷の世界遺産」と書いてありました。
 その中で、「水車」を掲載いただき、とても光栄に思っております。

 いろいろと書いて下さっていて、写真もたくさん載っています。

 私は自分の写真がイヤなのですが、皆さん、素敵だと言って下さっています。

 こちらで見ることが出来ます。ぜひご覧くださいませ。

 https://www.facebook.com/shibuyajournal
 渋谷新聞さん、ありがとうございました。

深夜の渋谷で強盗にあいました。
 戦後70年にして大変な体験をしました。
 お店を終えて、帰宅途中の出来事です。

 深夜2時10分頃のことです。渋谷のスクランブル交差点の辺りで一人の男が近づいて来ました。いきなり、「金がないんだ、金を出せ」と言いました。
 私は「何を言ってるのよ!」と言って、男の顔を見ようと、見上げたところ、態勢を崩して転んでしまいました。

 それを見ていた男は、驚いたのか何も取らずに逃げて行きました。30歳前くらいで綺麗なスーツを着た男でした。

 交番に行こうかとも思いましたが、怪我をしていたので、時間をとられたら大変だと思い、治療をするために家路を急ぎました。

 怪我は、右半身です。腕と腰、膝、足などを打って、腕は擦り傷も出来ましたが、すぐ治療したお陰かすっかり良くなりました。腰だけまだ痛みがあります。

 とんだ災難でした。でも、なぜ渋谷のど真ん中で私みたいな人を襲うのか、よく分かりません。

 帰りが遅くなると危ないと思っていましたが、本当に気をつけないといけませんね。

 皆さんも気をつけて下さい。


宮下公園が生まれ変わります。
 このたび宮下公園が再開発されることになりました。
 渋谷区所有の土地なので、区が主体となって計画されました。
 2020年の東京五輪に合わせ、2019年に完成の予定だそうです。

 フットサルコートなど既存のスポーツ施設を生かした緑化を進めるとともに、
新しい商業施設や宿泊施設も建設されるとのことです。

 工事は、民間事業者の三井不動産が請け負うことになりました。
 渋谷がより活性化することなので、とても良いとこだと思っております。

 ただし、のんべい横丁は私有地で今回のこの開発とは全く関係がありません。
 ちょっと取り残された感があります。

 今回のことで皆さんに尋ねられるので回答させて頂きました。


 ますます渋谷が発展することを願っております。


あけましておめでとうございます。
あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

年末に美保純さんがご来店下さいました。
お元気で嬉しかったです。

元旦には、50年ぶりで家の庭の“おもと”に実がつきました。
諦めていましたが、元日の朝に赤い実がついているのを見て、とても嬉しかったです。

また、12月のはじめに、水車の厨房で右足首の下を大やけどしました。
未だ毎日病院に通っているので大変ですが、お陰様で70%良くなって来ました。

暮は30日まで頑張って営業いたしました。
今年は3日からお店を始めました。

みなさまのお越しをお待ち申しております。


10月22日で、水車は48周年。これからもよろしく。
48周年を迎えました


10月22日に水車は48周年を迎えました。
これもひとえに皆様のお陰です。
心より感謝申し上げます。

また、お店をお手伝いいただいている多くの方々にも、
心より感謝を申し上げたいと思います。

当日はお店でささやかなお祝いをいたしました。
写真のお花も頂きました。
ありがとうございます。

49年目の水車もよろしくお願いいたします。





第48回 東京大空襲とともに想い出す”大楠公の歌”
 私の年代は、歴史を大切にして来ましたが、戦後は違ってきています。
戦前、戦中、戦後と歴史の捉え方が変わってきたのかもしれませんね。戦時中は、歴史とはいわず国史といっていました。日本国の史ということです。
 その当時、私が小学校の頃に盛んに歌った歌があります。教科書に載っていて、学芸会などでも学んだ歌です。

 『大楠公(だいなんこう)』という歌で、楠木正成と息子の正行の別れを歌った歌です。それは、涙なくしては歌われません。

 昭和20年3月10日、東京大空襲がありました。
 疎開命令が出てからしばらく経った戦火もいったん落ち着いていた頃で、私と父は疎開先の和光市から、ちょうど亀戸に戻ってきていたときでした。

 3月9日の夜に最初の空襲があり、父は「急いで逃げなさい」と私に言いました。私は近所の家族と一緒に小松川の橋で夜を明かしました。その後、学校に避難しました。二晩、父とは会えないまま過ごしました。

 翌日、学校の大きな講堂に次から次へと、怪我をした人たちが担架で運ばれてきました。父もどこかで怪我をおってはいないだろうか、父は無事だろうか、死んでしまっているのだろうか、そう考えると眠れずに、泣いて夜を過ごしました。
 そのとき父は亀戸中、東京中を、2日間私を探し歩いていたそうです。

 2日後の11日に、私は一緒に逃げた近所の家族と避難していた学校を出て家に戻ってみました。
 亀戸は何もない焼け野原になっていて、ずっとずっと遠くまで見渡せました。 そして、遠くのほうにいる父の姿を見つけました。
 そのとき、お父さんが生きていた、生きていてくれて良かった、という想いでいっぱいでした。父もそうだったと思います。

 父は私に「早く田舎に帰りなさい」といってくれました。
 米穀商をしていた父は、米の配給など残ってやらなければいけない仕事、父の役目がありました。その父と再会したときのことが、大楠公の歌の歌詞そのままで、自分の体験と重なって、今でも思い出すと涙をこらえることができません。

 正成涙を打ち払い
 我子正行呼び寄せて
 父は神戸へ赴かん
 彼方の浦にて討死せん
 汝はここまで来れども
 とくとく帰れ故郷へ
               (大楠公の歌より)

 その後、私はその足で田舎のある和光市まで帰りました。亀戸のあたりは電車が止まっていたので、亀戸から電車が走っているお茶の水だったか、秋葉原まで一人で歩いて行きました。

 途中、いろいろな光景を目の当たりにしましたが、なかでも鮮明に残っているのは、空襲で死んだ人たちが山のようになっていたことです。死んだ人たちが炭団のように山積みになって、焼け野原のあっちにもこっちにもあるのです。全身に火傷をおった人たちも大勢いました。着ていたものは全て焼け、全身の肉がなく真っ黒に焼けこげ、虫の息だけをしている人もいたのです。

 当時、私は15歳でした。一人、そのなかをただただ歩き、今を生きることだけを考え駅を目指して歩きました。私は生きていてよかったと思い、生きることだけが精一杯でした。

 同年代の人のなかには、二度と戦争にあいたくないから早く死にたいといっている人もいます。戦争を経験している人間の本心だと思います。

 8月15日は終戦記念日でしたが、私にとっては思い出したくない日です。それはそれは酷い体験をしているので、8月15日でなくても、ふと一人でいるとき、当時のことを思い出すことがあるからです。頭のなかに当時の様子がしまってあって、普段はそれにフタをしているだけなのです。大楠公の歌を思い出せば、当時のことが昨日のことのように蘇ってきます。私たちは、今このときも戦争を引きずっている日々なのです。

 ただ、私は戦争のことを次の世代に伝えなければいけないと思っています。今の若い人たちに伝え、若い人たちから次の世代の子供たちへ歴史と戦争、真実を伝えてほしいのです。そして二度と戦争を起こしてほしくないのです。
戦争は本当に人生を狂わせます。戦争を防ぐにはまず選挙に行ってほしいのです。

 親があって子供がいて、子供がいて親がいます。平和な世の中が続くよう、戦争、歴史を知ってほしいと思っています。




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